6年前の大震災で東北の太平洋岸一帯は津波に襲われ壊滅した。テレビではリアルタイムでがれきや泥の混じったどす黒い泥水のうねりが人家を襲う様子が映し出された。この映像を観た当時の私は、東北はなんて運が悪いのだろうと思った。ところが歴史をふり返れば、三陸海岸は昔から何度も巨大な津波に襲われてきたのだ。
2017年の大晦日である。私にとっては様々な出来事を経験した一年だった。印象深いのは、11月の初旬に岩手県と宮城県の沿岸の被災地の復興を視察したことだ。岩手県宮古市から宮城県仙台市まで車で南下したのだが、神秘的な紅葉の美しさの向こうではいたるところでショベルカーが動き、ダンプカーがひっきりなしに行ったり来たりしていた。復興事業はいまでも続いているのだ。
私と似たようなことをかつて私と比べられないくらい深く行ったのが、吉村昭である。彼は昭和40年代に、明治29年の明治三陸地震、昭和8年の昭和三陸地震の証言を記録し資料を収集した。その結果がこの『三陸海岸大津波』(原題は『海の壁――三陸沿岸大津波』)である。
本書には昭和三陸地震を経験した子どもたちの作文が載っているので、一つ紹介したい。
〈 つなみ
といって話して居りますと、まもなく、
「つなみだ、つなみだ」
と、さけぶこえがきこえてきました。
私は、きくさんと一しょにはせておやまへ上りますと、すぐ波が山の下まで来ました。
だんだんさむい夜があけてあたりがあかるくなりましたので、下を見下しますと死んだ人が居りました。
私は、私のおとうさんもたしかに死んだだろうと思いますと、なみだが出てまいりました。
下へおりていって死んだ人を見ましたら、私のお友だちでした。
私は、その死んだ人に手をかけて、
「みきさん」
と声をかけますと、口から、あわが出てきました。〉(122-123頁)
この文はあどけない少女が書いたような純朴なことばで地震と津波の様子を伝えている。ここで、この作文が7年近く前の3・11での映像や証言とよく似ていることに気づく。いわば、歴史が繰り返されたことが窺える。
私たちは歴史から何も学ばなかったのだろうか。多少は学んだのだと思う。というのも、これは宮古市の田老地区や陸前高田市を訪れたときに知ったのだが、明治と昭和の津波被害から今後もまた津波に襲われると考えたかつての自治体や政府は、すでに巨大な堤防を築いていた。しかし平成の津波はこの堤防を乗り越えた。これは旧堤防の建設の際に現実的な妥協をしたのだ。つまり海の城壁は高ければ高いほど安全になるわけだが、財政上あるいは美観の面からある程度の高さに決定して築いたのだ。
この問題はつねに付きまとう議論であるが、最終的には妥協する以外に道はない。被害に遭われた方には申し訳ないが、想定することで「想定外」をつくらないのが最善策なのである。あるいは問題自体を回避する道もある。つまり津波の被害の出る土地を去るということである。これを原発問題に応用するならば、安全性をある程度定めて原発をある程度保持し続けるのか、あるいは原発を手放すのかのどちらかしかないということである。各人がどちらを選ぶかは好みである。
明治と昭和の三陸津波の話に戻ると、平成の津波にはなかった証言を紹介している。それは津波襲来直前にドーン、ドーンという轟音が聴こえ、沖合に閃光を見たというものだ。また地震・津波直前には異様な大豊漁や井戸水の水位低下と水質悪化の証言もあった。このような怪現象については、一人二人どころではなく多数の人が訴えているのが興味深い。地震学の書籍をいくつか読んでいるが、この鳴動現象や怪光の合理的な説明は見当たらなかった。
地震学や耐震工学の分野は、金森博雄がモーメントマグニチュードを考案したり、佐野利器が震度法を提案したりと、地理的な理由もあって日本が意欲的に研究を行っている分野である。地震や津波のメカニズムや構造設計法の開発など、理学的な理由からも実用的な理由からも今後ますます研究を進めて欲しいものだ。
2004年3月10日 第1刷
著者:吉村昭
発行者:村上和宏
発行所:株式会社文藝春秋
印刷:凸版印刷
製本:加藤製本
ISBN:978-4-716940-1
石井光太『遺体 : 震災、津波の果てに』
吉村昭『関東大震災』
2017年の大晦日である。私にとっては様々な出来事を経験した一年だった。印象深いのは、11月の初旬に岩手県と宮城県の沿岸の被災地の復興を視察したことだ。岩手県宮古市から宮城県仙台市まで車で南下したのだが、神秘的な紅葉の美しさの向こうではいたるところでショベルカーが動き、ダンプカーがひっきりなしに行ったり来たりしていた。復興事業はいまでも続いているのだ。
私と似たようなことをかつて私と比べられないくらい深く行ったのが、吉村昭である。彼は昭和40年代に、明治29年の明治三陸地震、昭和8年の昭和三陸地震の証言を記録し資料を収集した。その結果がこの『三陸海岸大津波』(原題は『海の壁――三陸沿岸大津波』)である。
本書には昭和三陸地震を経験した子どもたちの作文が載っているので、一つ紹介したい。
〈 つなみ
尋三 大沢ウメ
がたがたがたと大きくゆり(揺れ)だしたじしんがやみますと、おかあさんが私に、
「こんなじしんがゆると、火事が出来るもんだ」といって話して居りますと、まもなく、
「つなみだ、つなみだ」
と、さけぶこえがきこえてきました。
私は、きくさんと一しょにはせておやまへ上りますと、すぐ波が山の下まで来ました。
だんだんさむい夜があけてあたりがあかるくなりましたので、下を見下しますと死んだ人が居りました。
私は、私のおとうさんもたしかに死んだだろうと思いますと、なみだが出てまいりました。
下へおりていって死んだ人を見ましたら、私のお友だちでした。
私は、その死んだ人に手をかけて、
「みきさん」
と声をかけますと、口から、あわが出てきました。〉(122-123頁)
この文はあどけない少女が書いたような純朴なことばで地震と津波の様子を伝えている。ここで、この作文が7年近く前の3・11での映像や証言とよく似ていることに気づく。いわば、歴史が繰り返されたことが窺える。
私たちは歴史から何も学ばなかったのだろうか。多少は学んだのだと思う。というのも、これは宮古市の田老地区や陸前高田市を訪れたときに知ったのだが、明治と昭和の津波被害から今後もまた津波に襲われると考えたかつての自治体や政府は、すでに巨大な堤防を築いていた。しかし平成の津波はこの堤防を乗り越えた。これは旧堤防の建設の際に現実的な妥協をしたのだ。つまり海の城壁は高ければ高いほど安全になるわけだが、財政上あるいは美観の面からある程度の高さに決定して築いたのだ。
この問題はつねに付きまとう議論であるが、最終的には妥協する以外に道はない。被害に遭われた方には申し訳ないが、想定することで「想定外」をつくらないのが最善策なのである。あるいは問題自体を回避する道もある。つまり津波の被害の出る土地を去るということである。これを原発問題に応用するならば、安全性をある程度定めて原発をある程度保持し続けるのか、あるいは原発を手放すのかのどちらかしかないということである。各人がどちらを選ぶかは好みである。
明治と昭和の三陸津波の話に戻ると、平成の津波にはなかった証言を紹介している。それは津波襲来直前にドーン、ドーンという轟音が聴こえ、沖合に閃光を見たというものだ。また地震・津波直前には異様な大豊漁や井戸水の水位低下と水質悪化の証言もあった。このような怪現象については、一人二人どころではなく多数の人が訴えているのが興味深い。地震学の書籍をいくつか読んでいるが、この鳴動現象や怪光の合理的な説明は見当たらなかった。
地震学や耐震工学の分野は、金森博雄がモーメントマグニチュードを考案したり、佐野利器が震度法を提案したりと、地理的な理由もあって日本が意欲的に研究を行っている分野である。地震や津波のメカニズムや構造設計法の開発など、理学的な理由からも実用的な理由からも今後ますます研究を進めて欲しいものだ。
書誌情報
『三陸海岸大津波』2004年3月10日 第1刷
著者:吉村昭
発行者:村上和宏
発行所:株式会社文藝春秋
印刷:凸版印刷
製本:加藤製本
ISBN:978-4-716940-1
関連書籍
金菱清(ゼミナール)編『呼び覚まされる霊性の震災学』石井光太『遺体 : 震災、津波の果てに』
吉村昭『関東大震災』
コメント
コメントを投稿