魂は不死である。知を愛する者だけが、肉体と魂が分離したのちに神々と交わり真理を得る。ゆえに真の哲学者ならば、死を恐れるのでなくむしろ死を求めるのである。
ぼくが思想的に最も影響を受けた人はプラトンである。プラトンとの出会いは高校で倫理の授業を受けたとき。この倫理の授業は大変ワクワクした。生と死について、社会や国家について、自然や世界の真理について、子どもの頃から自分ひとりで考えていたことが、歴史上多くの人も考えていて、世の中はおもしろい考え方に溢れていることを知った。
それから大学に入り時間ができて、プラトンの著作に手を出すと止まらなくなった。『ソクラテスの弁明』『饗宴』『プロタゴラス』『国家』などの対話篇を読み漁った。ただ哲学は専門ではなかったので、理解のほどは大変怪しいが。
プラトン(紀元前427年-紀元前347年)は、人類の文化に多大な影響を与えた者のうちでも、最大の人であった。彼は老年のソクラテスに感化され哲学の道を歩むことになり、師ソクラテスの学究方法である対話の形式で数多くの著作(対話篇と呼ばれる)を残し、その中においてイデア論をはじめとする様々な学説を唱えたことは、広く知られていることである。また、彼がアテナイ郊外に学園アカデメイアを開設したことや、何度かシケリアに旅行して知的な交流を行ったこと、シュラクサイの政治家ディオンと交友し政治的な期待を寄せていたこと、彼の著作は現在主に初期・中期・後期の3つに分けられてしばしば論じられることなど、彼を知る上で述べるべき事柄は少なくない。ここでは彼の主要な学説である想起説とイデア論について、『パイドン』での議論を確認してみよう。
『パイドン』の概観はこうである。まず本著作は、プラトン独自の思想・哲学が展開され始めたとされる中期対話篇に分類される。場面設定は、ソクラテスの刑死の当日の昼に行われた議論について、パイドンがそのときをふり返ってエケクラテスに語るという形式となっている。副題は「魂について」であり、内容は死に際して魂(プシュケー)が不滅であることをソクラテスが証明していくというものである。証明は大きく分けて3つ、あるいは4つ示される。その中の一つに想起説による証明があり、また別にイデア論を用いた証明も述べられる。
想起説とは何か。それは、学習とは想起(アナムネーシス)であり、〈もしもだれかが何かを想起するならば、かれはそのものをかつて以前に知っていたのでなければならない〉(56頁, 73C)というものである。この説を支持する理由はこうである。われわれは感覚で捉えたものからそのものとは別のものを思い浮かべるとき、想起したと言う。たとえば恋する人々が彼らの愛する少年たちがいつも使っている竪琴を見たとき、その竪琴の持ち主である少年の姿を心に思い浮かべる。このとき、竪琴の知識を認知したのち、少年の知識を想起したのである。
ここで「等しさ」が問題となる。われわれは完全な等しさやそれに類した概念(「等しさそのもの」)を持っている。ところが「等しさそのもの」を考えついたり考えつき得るのは、感覚によって得た等しい事物の知識から想起する以外に出所がない。ゆえに生まれる前に完全な知識を獲得しながら、生まれるや否やそれを失ったと考えざるを得ず、「学ぶこと」とはもともと自分のものであった知識を再把握することであるという結論が出てくる。
ではいつ魂は完全なそれらの知識を得たのか。それは生まれる以前に他ならないから、魂は身体が生まれる前から存在していたという。さらに、「すべての生者は死者から生まれる」というテーゼ(これは一番最初の霊魂不滅の証明で示される事柄である)を認めれば、身体の死後も魂が存続することが導き出される。
以上が想起説による霊魂不滅の証明であるが、ここからいくつか議論があって、最終的な霊魂不滅の証明としてイデア論による証明が行なわれる。
イデアとは、真に実在するもの、われわれが定義を試みる場合にその対象として思考する実在である。イデア論は、われわれがこの世界で知るすべての事物は、真実在であるイデアの不完全な似像にすぎない、という主張である。
『パイドン』においてソクラテスは決定的な証明として、身体のうちに魂が生じると生をもたらし、魂は生とは反対の死をけっして受け入れない、つまり不死なものであると結論づける。これは各々のイデアをもつ個々のものは、そのイデアと反対のイデアを決して受け入れないということを、魂(個々のもの)に適用することで得られる。また不死なるものは不滅でもあるので、魂は不死でもあり不滅でもあると導き出して証明は幕を閉じる。
さて皆さん、このプラトンの想起説とイデア論について、どう思われるでしょうか。何かを知る(学習する)ということは、新たに知識を得ることであり、既に知っていたことを思い出すこととは全く違うものであるように思う。例えばある特定の物的対象(たとえば目の前のテーブル)について、その存在や性質を知るのは視覚や触覚といった感覚によるのであって、そのこと(テーブルがいまここにこのような仕方であるということ)自体を生まれる前から知っていたとは到底思えない(生まれた後の未来について、生まれる前にすべて知っている必要があるように思われる)からである。また憶えていた事柄を生まれる前にどうしてすっかり忘れてしまうのか、そしてその魂はどうして身体を持つに至ったのかも全く理解できない。
二 死に対するソクラテスの態度
三 霊魂不滅の証明
四 神話――死後の裁きとあの世の物語
五 終曲――ソクラテスの死
著者:プラトン
1998年2月16日 第1刷発行
訳者:岩田靖夫
発行者:岡本厚
発行所:株式会社 岩波書店
印刷:精興社
製本:牧製本
ISBN:978-4-00-336022-2
岩田靖夫『ギリシア哲学入門』
R. S. ブラック『プラトン入門』
河野勝彦『死と唯物論』
ぼくが思想的に最も影響を受けた人はプラトンである。プラトンとの出会いは高校で倫理の授業を受けたとき。この倫理の授業は大変ワクワクした。生と死について、社会や国家について、自然や世界の真理について、子どもの頃から自分ひとりで考えていたことが、歴史上多くの人も考えていて、世の中はおもしろい考え方に溢れていることを知った。
それから大学に入り時間ができて、プラトンの著作に手を出すと止まらなくなった。『ソクラテスの弁明』『饗宴』『プロタゴラス』『国家』などの対話篇を読み漁った。ただ哲学は専門ではなかったので、理解のほどは大変怪しいが。
プラトン(紀元前427年-紀元前347年)は、人類の文化に多大な影響を与えた者のうちでも、最大の人であった。彼は老年のソクラテスに感化され哲学の道を歩むことになり、師ソクラテスの学究方法である対話の形式で数多くの著作(対話篇と呼ばれる)を残し、その中においてイデア論をはじめとする様々な学説を唱えたことは、広く知られていることである。また、彼がアテナイ郊外に学園アカデメイアを開設したことや、何度かシケリアに旅行して知的な交流を行ったこと、シュラクサイの政治家ディオンと交友し政治的な期待を寄せていたこと、彼の著作は現在主に初期・中期・後期の3つに分けられてしばしば論じられることなど、彼を知る上で述べるべき事柄は少なくない。ここでは彼の主要な学説である想起説とイデア論について、『パイドン』での議論を確認してみよう。
『パイドン』の概観はこうである。まず本著作は、プラトン独自の思想・哲学が展開され始めたとされる中期対話篇に分類される。場面設定は、ソクラテスの刑死の当日の昼に行われた議論について、パイドンがそのときをふり返ってエケクラテスに語るという形式となっている。副題は「魂について」であり、内容は死に際して魂(プシュケー)が不滅であることをソクラテスが証明していくというものである。証明は大きく分けて3つ、あるいは4つ示される。その中の一つに想起説による証明があり、また別にイデア論を用いた証明も述べられる。
想起説とは何か。それは、学習とは想起(アナムネーシス)であり、〈もしもだれかが何かを想起するならば、かれはそのものをかつて以前に知っていたのでなければならない〉(56頁, 73C)というものである。この説を支持する理由はこうである。われわれは感覚で捉えたものからそのものとは別のものを思い浮かべるとき、想起したと言う。たとえば恋する人々が彼らの愛する少年たちがいつも使っている竪琴を見たとき、その竪琴の持ち主である少年の姿を心に思い浮かべる。このとき、竪琴の知識を認知したのち、少年の知識を想起したのである。
ここで「等しさ」が問題となる。われわれは完全な等しさやそれに類した概念(「等しさそのもの」)を持っている。ところが「等しさそのもの」を考えついたり考えつき得るのは、感覚によって得た等しい事物の知識から想起する以外に出所がない。ゆえに生まれる前に完全な知識を獲得しながら、生まれるや否やそれを失ったと考えざるを得ず、「学ぶこと」とはもともと自分のものであった知識を再把握することであるという結論が出てくる。
ではいつ魂は完全なそれらの知識を得たのか。それは生まれる以前に他ならないから、魂は身体が生まれる前から存在していたという。さらに、「すべての生者は死者から生まれる」というテーゼ(これは一番最初の霊魂不滅の証明で示される事柄である)を認めれば、身体の死後も魂が存続することが導き出される。
以上が想起説による霊魂不滅の証明であるが、ここからいくつか議論があって、最終的な霊魂不滅の証明としてイデア論による証明が行なわれる。
イデアとは、真に実在するもの、われわれが定義を試みる場合にその対象として思考する実在である。イデア論は、われわれがこの世界で知るすべての事物は、真実在であるイデアの不完全な似像にすぎない、という主張である。
『パイドン』においてソクラテスは決定的な証明として、身体のうちに魂が生じると生をもたらし、魂は生とは反対の死をけっして受け入れない、つまり不死なものであると結論づける。これは各々のイデアをもつ個々のものは、そのイデアと反対のイデアを決して受け入れないということを、魂(個々のもの)に適用することで得られる。また不死なるものは不滅でもあるので、魂は不死でもあり不滅でもあると導き出して証明は幕を閉じる。
さて皆さん、このプラトンの想起説とイデア論について、どう思われるでしょうか。何かを知る(学習する)ということは、新たに知識を得ることであり、既に知っていたことを思い出すこととは全く違うものであるように思う。例えばある特定の物的対象(たとえば目の前のテーブル)について、その存在や性質を知るのは視覚や触覚といった感覚によるのであって、そのこと(テーブルがいまここにこのような仕方であるということ)自体を生まれる前から知っていたとは到底思えない(生まれた後の未来について、生まれる前にすべて知っている必要があるように思われる)からである。また憶えていた事柄を生まれる前にどうしてすっかり忘れてしまうのか、そしてその魂はどうして身体を持つに至ったのかも全く理解できない。
またイデア論にも疑問点がある。特に個々の事物がイデアを「分有」するという考え方についてである。一つのイデアがどうして感覚的世界では複数の個物に分有するのかについては、『パイドン』以降の『パルメニデス』などの著作でプラトンが自己批判的に何度も取り上げており、アリストテレスも「第3の人間」として批判している点である。私の疑問点は、たとえば目の前に白いテーブルがあったとする。このとき、この対象は白のイデアとテーブルのイデアを分有していると言われるが、ではこの対象はどうしてこれらのイデアを分有しているのか、という点である。つまり実在のイデア界が感覚的世界にどうして関係しているのか、なぜこのような仕方で関係しているのか、というものである。これについては、イデア界が実在だとするよりも、感覚的世界を実在として、感覚的世界での個物の経験からより普遍的なイデア界(普遍の世界)を想定することによって感覚的世界を解釈しているのだと考えた方が、常識に合致するし、少なくとも感覚的世界にいるとされるわれわれにとってはよく理解できる説明であるように思う。あるいは、人間の知覚が信用できないという多くの哲学者たちの指摘を考慮すれば、感覚的世界と物理的世界を区別して、感覚的世界から得られる情報から想定される物理的世界を想定し、イデア界は物理的世界の解釈のために想定された世界だとすればよいのかもしれない。どの世界も相互に関係しており、どれを実在の世界とするかは好みによるだろう。
ただ、たとえば「善い」や「白い」といった概念(イデア)は、個々の物や出来事同士に共通する性質を表わしており、それらの普遍はわれわれの感覚的世界あるいは想定している物理的世界の中をいくら探し回っても、まったく見つけることができないように思われる。また数学的な事柄についても、たとえば数「2」や「円」などは、この世界では不完全な形でしか現われず、完全な世界としてイデア界のような数学的な世界に属することだと考えるのは自然なことであろう。これらの普遍の概念や数などについては、プラトンが『国家』などで述べたように、感覚的世界や物理的世界とは別の存在のあり方をしているような気がする。
ただ、たとえば「善い」や「白い」といった概念(イデア)は、個々の物や出来事同士に共通する性質を表わしており、それらの普遍はわれわれの感覚的世界あるいは想定している物理的世界の中をいくら探し回っても、まったく見つけることができないように思われる。また数学的な事柄についても、たとえば数「2」や「円」などは、この世界では不完全な形でしか現われず、完全な世界としてイデア界のような数学的な世界に属することだと考えるのは自然なことであろう。これらの普遍の概念や数などについては、プラトンが『国家』などで述べたように、感覚的世界や物理的世界とは別の存在のあり方をしているような気がする。
目次
一 序曲二 死に対するソクラテスの態度
三 霊魂不滅の証明
四 神話――死後の裁きとあの世の物語
五 終曲――ソクラテスの死
書誌情報
『パイドン : 魂の不死について』著者:プラトン
1998年2月16日 第1刷発行
訳者:岩田靖夫
発行者:岡本厚
発行所:株式会社 岩波書店
印刷:精興社
製本:牧製本
ISBN:978-4-00-336022-2
関連書籍
プラトン『ソクラテスの弁明』『クリトン』『国家』『パルメニデス』岩田靖夫『ギリシア哲学入門』
R. S. ブラック『プラトン入門』
河野勝彦『死と唯物論』
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