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9. リンカーン『リンカーン演説集』

誰しもが偉人と認めるリンカーン米大統領。彼の偉大さは、貧しい出自から努力して大統領にまで上り詰めたことのみならず、南北戦争という国難の克服や奴隷の解放を成し遂げたことにある。政治や国家、リーダーシップについて想う際、アメリカ大統領の原像としてのエイブラハム・リンカーンのことばを振り返ることは、いつまでも有用であり続けるだろう。

 トランプが新たにアメリカ大統領になってから8ヶ月が経とうとしている。その間には様々な出来事があった。TPPからの離脱、イスラム諸国からの入国制限、アサド政権へのトマホーク攻撃等々。近頃は朝鮮半島の危機が続き、トランプも圧力をかけてはいるものの北朝鮮の核・ミサイル開発が一段落してしまい、国際世論は対話・平和路線、つまり北の核兵器保有容認の流れになりつつある。日米はこの流れに抗うことはできないだろう。
 時評はさておき、トランプの所属する共和党で初の大統領であるリンカーンの話をしよう。彼といえば、奴隷解放宣言や「人民の、人民による、人民のための政治」と言ったゲティスバーグ演説が有名である。ただリンカーンといえばコレといった、教科書的脊髄反射的な答えを述べればよいといった理解ではなく、その背景を少し確認してみたい。
ジョージ・ピーター・アレクサンダー・ヒーリー 画, Abraham Lincoln, 1869年

 リンカーンの主要な業績は奴隷解放であるが、アメリカ合衆国の奴隷制度は、白人がヨーロッパから渡ってきた直後から始まった。白人入植者たちはインディアンを殺害するなどして追っ払い、やがて植民地であることに嫌気がさして、ついにイギリスに対する独立戦争(革命)を始める。そして1776年にアメリカ独立宣言を行うが、その中で「われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ」と謳った。この「すべての人間」の範囲について、白人の他に黒人も含めるのかどうか議論の的になった。
 リンカーンは言う。「われわれの国家(ガヴァメント)が建設された折には奴隷制度が布かれていました。われわれはある意味で奴隷制度の存在を黙認せざるをえませんでした。一種の必然であったのです。われわれは戦争を経、しかるのちに自らの独立を獲得したのでした。憲法制定者は、当時の多くの制度とともに、奴隷制度が存在しているのを見ました。これを根絶しようと努めれば、既に手に入れたものを多く失うかもしれないと思いました。そしてこれを必然として黙認せざるをえなかったのです。そこで二十年を経た後、彼らは奴隷売買を廃止する権限を議会に与えました。また奴隷制度の存在していない領地(テリトリーズ)〔北西部〕においてはこれを禁止しました。人事をつくした後は、それ以上のことをこの必然に委ねたのです。私もまたこの必然から生ずることにすべてを委ねます。私のもっとも望んでいることは、白人と黒人との人種の分離であります。」(「リンカーン・ダグラス論争」70-71頁)
 上記引用からも窺えるが、独立戦争の時代から米国、特に北部の州では奴隷制度の(段階的)廃止が目指されていた。しかし高邁な理想は中々実現しなかった。その主因として奴隷の需要が増大したことが挙げられる。18世紀末、イーライ・ホイットニーは機織り機を発明し、木綿の需要が増加することで、綿花栽培のためのプランテーションに奴隷が必要になったのだ。それゆえ奴隷問題において、黒人の人権と白人の財産権の対立という構図ができた。黒人の人権側はもちろん奴隷解放賛成=北部=共和党で、白人の財産権側は奴隷解放反対=南部=民主党である。現在とは真逆の構図なので注意が必要だ。
 奴隷制度の経済的側面を少し確認したところで、次は法的政治的な側面に目を向けたい。
 奴隷制度を制限した法律として挙げるべきは、1820年のミズーリ協定(Missouri Compromise)であろう。ミズーリ妥協とも訳されるこの法案は、新たに州に昇格して連邦に加盟するミズーリ州は、奴隷制を認める奴隷州(slave state)とするが、南北を分ける北緯36度30分を境界線とし、その以北では奴隷制を廃止する地域(ミズーリ準州)とする取り決めであり、奴隷制問題による対立の激化を抑えようとした妥協案である。しかし1854年になり、新たにカンザス準州とネブラスカ準州を創設し、奴隷制の可否はそれぞれの準州の開拓者たちが自主的に決めるというカンザス・ネブラスカ法が制定され、ミズーリ協定は実質的に撤廃されてしまう。この法律はアメリカ合衆国の南北の分裂を決定的なものとし、内戦の方向へ向かうことになった。
 また1957年には、奴隷州から自由州(free state)に連れて行かれた奴隷は自由にはならないというドレッド・スコット判決が最高裁判所で出された。この判決はつまり、アフリカから奴隷として連れて来られた人は、その子孫も含めアメリカのいかなる州においても市民となり得ないというものであり、リンカーンを始めとする共和党員は不当であると訴えた。
 そして1860年の大統領選挙において、リンカーンは第16代アメリカ大統領に選出された。その直後、アメリカ南部の諸州が合衆国からの脱退を宣言し、翌年の2月4日にアメリカ連合国を結成して、ジェファーソン・デイヴィスが暫定大統領に指名された。
 3月4日にリンカーンが大統領に就任すると、彼は就任演説において連邦の分裂を企て憲法と法律に即した政府を打倒することは止めるように諭している。
 しかし4月12日、南北戦争が始まった。
 戦局は南北両軍が拮抗した。主戦場であるアパラチア山脈以東の東海岸では、名将ロバート・エドワード・リー率いる南軍が北軍を苦しめた。
 1863年の夏、ゲティスバーグで決戦が行なわれた。北部侵攻を目指すリー将軍の南軍は、ジョージ・ミード率いる北軍に敗れた。その後、かの有名な演説が行われた。このゲティスバーグ演説は『演説集』を開くと明らかであるが、大変簡素な演説であった。ただ最後の「人民の、人民による、人民のための政治」の文言は、敗戦後の我が国の憲法の前文にも取り入れられるほどの影響力を持つことになった。
 それから翌年3月、リンカーンは北軍総司令官としてユリシーズ・グラント将軍を任命し、北軍による歴史的な反攻が始まった。物量の上では不利であった南軍側は敗走を重ね、1865年4月3日、ついに連合国の首都リッチモンドが陥落し、4月9日、アポマトックスでリー将軍が降伏した。北軍の勝利である。
ジョージ・ピーター・アレクサンダー・ヒーリー 画, The Peacemakers, 1868年

 さて、この南北戦争の間、リンカーン大統領は奴隷の開放を行った。ただ終戦が近づくにつれ、奴隷解放宣言が軍事的な指令であるなら、戦争が終わると無効になるのではないかと心配した。それゆえ、リンカーンらは憲法に奴隷制度の恒久的な廃止を書き込むことを決意し、憲法修正第13条を議会で通した。この際のリンカーンの暗躍の様子は、スピルバーグ監督が映画『リンカーン』(2012年)で描いている。
 スピルバーグはリンカーンのリーダーシップを称賛する。奴隷の永久的な解放という理想の実現を決断し、急進派を説得し共和党内をまとめ上げ、大統領という権力を利用して民主党からの離反者の票も集めた。このような地味で地道な政治的取引を我慢強く行うことで、修正第13条を成立させた。
 ヘーゲルは『歴史哲学講義』の中で、人類の歴史を自由のための闘争の歴史だと言い、その過程で世界精神の体現者が現れると説いたが、リンカーンはカエサルやナポレオンに連なる世界史的個人だったといえる。ただヘーゲルは人種差別的であったのに対し、リンカーンは黒人の自由獲得の理念を実現したことから、ヘーゲルの人種観を乗り越えた、いわば止揚したといえるだろうか。
 内戦終結直後、リンカーンは暗殺される。彼の命は失われたが、彼が行なった奴隷解放と同じく、リンカーンの名は永遠のものとなった。
「なんぴとに対しても悪意をいだかず、すべての人に慈愛をもって、神がわれらに示し給う正義に堅く立ち、われらの着手した事業を完成するために、努力をいたそうではありませんか。国民の創痍を包み、戦闘に加わり斃れた者、その寡婦、その孤児を援助し、いたわるために、わが国民の内に、またすべての諸国民との間に、正しい恒久的な平和をもたらし、これを助長するために、あらゆる努力をいたそうではありませんか。」(「第二次大統領就任演説」187頁)

目次

自叙伝
連邦議会下院における該地点問題に関する決議案
連邦議会下院におけるメキシコ戦争に関する演説
ウィリアム・H・ハーンドンにあてた書簡
「半ば奴隷、半ば自由」の観念の初めて表れた書簡
ジョシュア・スピードにあてた書簡
「ドレッド・スコット判決」に関するスプリングフィールドにおける演説
「分かれたる家は立つこと能わず」演説
リンカーン・ダグラス論争
 (一) スプリングフィールドにおける演説の一部
 (二) クリントンにおける演説の一部
クーパー・インスティテュト演説
スプリングフィールドを去ってワシントンに向う別れの挨拶
第一次大統領就任演説
特別議会に与えた教書(戦争教書)
漸次的補償つき奴隷解放に関して議会に与えた勧告
ホレス・グリーリーにあてた書簡
奴隷解放予備布告
奴隷解放最後布告
議会に対する年次教書よりの抜萃
感謝祭を行う旨の布告
ゲティスバーグ演説
再選祝賀の歓呼の歌に対する挨拶の辞
ビクスビ夫人にあてた書簡
第二次大統領就任演説

書誌情報

『リンカーン演説集』
1957年3月25日 第1刷発行
2011年12月8日 第33刷改版発行
訳者:高木八尺・斎藤光
発行者:山口昭男
発行所:株式会社 岩波書店
印刷:精興社
製本:牧製本
ISBN:978-4-00-340121-2

関連書籍

ドリス・カーンズ・グッドウィン『リンカーン』
トクヴィル『アメリカのデモクラシー』

コメント

  1. 「リンカーン演説集」、中でも「ゲテスバーグ演説」はこれまで世間の耳目を集め、その間の功績は絶大なものがありました。しかし、その弊害も明らかになってきました。その「解説」で「・・その戦場の一部を国有墓地として・・式典がおこなわれた。」としますが、国有(national)になったのは当初ではなく、1869年のことであって、この誤解は今なお国内に蔓延しています。第1文の理解も不可解です。conceived in Libertyを「自由の精神にはぐくまれ、」としていますが、Libertyを「自由の精神」とするのは「訳者の独自の創作」というの他ありますまい。ここでいうLibertyとは、私見によれば独立宣言前の、kingに対抗しようとの共通の意思を固めた12 (後に13) coloniesをいい、第10文にいうGodと共に固有名詞です。共通の意思を固めた12 coloniesなるLibertyは1774年10月20日にthe Associationに調印し、その意思を確認します。この確認によって1つの団結体が成立します。この団結体の成立がconseived(妊娠による着床)であり、この団結体は後に誕生するa new nationからすれば胎児に相当します。そこでbrought forth, conceived, dedicatedの相互関係を時系列で古い順に並べますと、1. (which had been)conceived, 2. (which had been)dedicated, 3. brought forth, ということになります。委細については、アマゾンKindle版 拙著「the Gettysburg Addressを読み解く(2019)」をご覧頂ければ幸いです。

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